専業ババ奮闘記その2 出産⑤

30代フリーター やあ、ジイさん。菅義偉が記者会見で「崩壊」しない医療体制をつくるための医療法改正について問われ、「国民皆保険、そして多くのみなさんが診察を受けられる今の仕組みを続けていくなかで、コロナがあり、そうしたことも含めてもう一度検証していく必要がある。必要であれば改正するのは当然」と答えたら、国民皆保険制度を見直す気かという憶測が批判とともにSNS上に広がった。

年金生活者 既得権の打破を掲げる彼の頭にそうした考えがあったとしても不思議ではない。それに「自助」「共助」「公助」を並べて「自助」を第一に置き、「公助」を最後に考える彼にとって、「公助」の最たるものである国民皆保険は見直しの対象になり得るだろう。

このタイミングでそれをほのめかすようなことを言ったのは、政権からコロナ対策の主導権を奪った医療界への意趣返しの意図があったと考えることもできる。「新しい生活様式」という言葉で国民の自由の制限を求める医療界は「医療権力」と呼ぶにふさわしく、政権や与党に代表される「政治権力」はそれに押され続けてきた。そして国民も「医療権力」に従ってきた。

 ところが、2度目の緊急事態宣言が出ても最初の宣言のときほど人出が減っていない事実にあらわれているように、国民の多くは医療の専門家の言うことをいつでも聞くとは限らなくなってきている。「医療崩壊」の危機を訴えられても、そうならないようにするのがあなた方の責任のはずなのに、この1年なにをしてきたの?という気持ちがあるのだと思う。

 経済を止めないことに固執してきた菅にとっては、そうした国民の気持ちの変化は「医療権力」を牽制するチャンスと受け取れるだろう。

30代 逼迫する新型コロナの病床を確保するため、政府は、医療機関への協力の「要請」を、より強い「勧告」に改め、正当な理由なく従わない場合は機関名を公表できるようにする感染症法の改正案を今国会に提出すると報じられている。

年金 コロナ対策では、医師会や病院業界に代表される「医療権力」の言いなりになるしかなかった霞が関の「官僚権力」と、政権および与党の「政治権力」が巻き返しに出たと見ることができる。

 朝日新聞は「今回の改正案には官邸の意向が働いた」と背景を説明し、菅義偉が日本医師会など医療団体と面会して「必要な方に必要な医療を提供させていただくために、さらなるご協力を賜りたい」と要請したと報じている(1月16日朝日新聞朝刊)。国民皆保険をめぐる菅の発言はやはり、言うことを聞かないと既得権を削り取るぞという医療界への脅しだったのか、と思わせる面会だ。

30代 コロナ対策をめぐってはイデオロギーによる対立も見える。左派・進歩派が感染拡大の阻止を最重点にするのに対し、右派・保守派はそれによる経済の停滞を食い止めることを重視する。

年金 左右のイデオロギーの差を大ざっぱに言えば、左派・進歩派が「弱者」の味方であるのに対して、右派・保守派は「強者」の味方ということになる。この分け方は右派・保守派から「われわれは弱者の敵ではない」という不満が出るかもしれない。だが、菅に限らず「自助」を第一に置き、「公助」を最後の手段と考えるのが右派・保守派であり、それは「自助」ができる力を持つ者、その意味で「強者」と呼べる者を中心に置く考えに導かれる。

 これは歴史と伝統を重視する姿勢からおのずと出てくる考えだ。長い時間に耐えて生き延びてきたものにこそ価値があるという思想だからだ。これが極端になると、適者生存を当然視する優生思想に行き着く。

 これに対し、左派・進歩派は「弱者」の味方を自ら任じ、かつては当時の「弱者」だったプロレタリアート、労働者階級の味方として振る舞ってきた。やがてこの「弱者」は資本主義の高度化とともに「自助」のできる「強者」に変わっていく。それでも彼らが資本主義社会の「多数派」であることに変わりはないので、「弱い多数派」はいなくなってしまった。いま左派・進歩派が味方しているのは「弱い少数派」であり、その代表的な存在が障害者、少数民族、難民などだ。

 そうした「弱い少数派」に高齢者を加えれば、左派・進歩派がコロナ対策で経済より感染防止を重視するのがわかる。青壮年にくらべて重症化したり、死亡したりする危険がずっと大きい高齢者をウイルスから守るためには、経済を犠牲にするのもやむを得ない。経済の主な担い手は社会の「多数派」である青壮年であり、彼らにしっかり「自粛」してもらうほかないという考えに行き着く。

 これは余命の少ない高齢者に手厚い施策をするか、未来のある青壮年に手厚い施策をするかという二者択一的な問いを突きつける。どちらを重視するかは政治家もその道も専門家も公には口にできない難しい問題だ。それが完全に解けるのは、みんなで分け合うパイが限られた大きさでなくなるとき、つまり富の稀少性が消滅するときしかない。それまでは重点をどちら寄りにするか、その度合い、その分量の最適化を求め続けるほかない。