ニュース日記 766 考えるとはどういうことか

30代フリーター やあ、ジイさん。考える技術の自己啓発本がいろいろ出ている。考えない仕事はAIに奪われるかもしれないからか。

年金生活者 私も2冊ほど読んだことがあり、大いに啓発された。両方に共通していたのは、「ああでもない、こうでもない」と思案するのは何も考えていないのも同然としていることだ。考えることを仕事に役立てるのをおもな目的とした本だから当然と言えるが、考えの深さは「ああでもない、こうでもない」から生まれることも確かだ。

 『自分のアタマで考えよう』(ちきりん、2011年)という本は、「ああ、どうしよう。困った。このままじゃダメだ! とりあえず様子をみてみようか? いやダメだ……」といった状態を例にあげ、「むしろこれでは『なにも考えていない』状態に近い気さえします」と言っている。『思考中毒になる!』(齋藤孝、2020年)という本も「ああでもない、こうでもない」といった「考えごと」は「心配ごと」がほとんどで、思考ではなくて「堂々めぐり」と言っている。

 イノベーションが利潤の主要な源泉となった現在の資本主義が絶えず新しいアイデアを要求する以上、結果を出さなければならないから当然の指摘だろう。

30代 たいていの人間はあまりものを考えていないことを前提に書かれた本だな。

年金 考えていないように見えるとすれば、仕事上のアイデアを出すための思考を要求される職種は今でも全体から見れば少数で、労働者の大多数はルーティンワークをこなすことに労働時間の大部分を費やしているからだ。

 それは何も考えていないということではなく、職場の上司や同僚と波風立てずに自分の意向を通すにはどうしたらいいか、取引先を説得する材料はないか、家族に起きた「心配ごと」にどう対処するか、といった「人間関係」にかかわることを必死で考えている。

 それが「ああでもない、こうでもない」となるのは、判断の物差しを絶えず変えざるを得ないからだ。人間関係を対象にする以上、自分の立場ばかりでなく、相手の立場や第三者の立場、時には公の立場にも立ってみなければならない。仕事でアイデアをしぼり出すときのように、物差しが決まっているわけではない。

 物差しが変わるということは、対象に向けられた心の位置と向きがそのつど変わるということだ。その動作が層をなし、思考に深さを与える。水路を掘ろうとして巨石に突き当り、「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤を繰り返しているうちに、深い井戸を掘ってしまう。そんなたとえが思い浮かぶ。

 そこからはすぐに役に立つアウトプットは得られないかもしれないが、揺れる主体を均衡させる支えを築くことにつながる。

30代 ジイさんもそうかい。

年金 ひとりでいるときの私の心はたいていパソコン画面のスクリーンセーバーのように揺れ動く連想で満たされている。心のアイドリングと言ってもいいようなこの状態は、程度の差はあれ、人間の心の基本的なあり方と考えることができる。

 それが痛みをともなう回想に行き当たると、「なぜ痛いのだ」と問わずにはいられなくなる。それが連想を一時停止させ、考えるという動作、思考を起動する。

30代 考えるといえば、学者とか知識人はその道の専門家みたいに思われている。

年金 痛い目に遭ったとき、困難にぶつかったとき、「なぜだ」と考えるのが知識人なら、「どうしよう」と考えるのが大多数の人たち、大衆と言えるかもしれない。前者の考えが過去に向かうのに対し、後者は未来に向かう。言い換えれば、知識人の思考は原因を求め、大衆のそれは結果を求める。

 原因を求める思考はどこまでも過去にさかのぼる。自分の過去ばかりでなく、自分の前の世代へ、そして自分のいる社会の前の時代へ。それには限度がない。そのぶん思考は深くなる。現在を変えることがないという意味では受動的な思考だが、その深さによって、あるいは過去にさかのぼる時間の長さによって、現在の痛みを相対化し、その度合いを和らげることができる。

 これに対し、結果を求める思考は能動的と言える。けれど、未来は過去のように確固として存在しているわけではない。思考を先へ先へとどこまでも進めていくことは不可能だ。原因を求める思考ほどには深まらない。その代わり、あらゆる行動の選択肢を想定しようとするので、思考は広がりを持つ。それが現在を変えることにつながる。つまり、今の痛みを除去する可能性がある。

30代 知識人だからといって、とくに考えることが多いというわけじゃなさそうだ。

年金 ラカンが言っている。「思考が服を着て歩いているような人のなかで活動している思考が、生きていくこと(エグジスタンス)にもっとも密接に結びついたさまざまな必要にとらわれている勤勉な家政婦の思考よりもずっと多い、ということはおそらくありません」(『無意識の形成物』佐々木孝次ほか訳)

 私たちはときに知識人の思考を、ときに大衆の思考をすることができるが、それぞれの思考の総量を足し合わせた分量の思考をひとりで担うことはできない。