ニュース日記 763 知識人批判の流行
30代フリーター やあ、ジイさん。インテリをけなし続ける橋下徹、エスタブリッシュメント攻撃で大統領になったドナルド・トランプなど、知識人批判が日本でもアメリカでも政治の潮流のひとつになっている。
年金生活者 日本学術会議に対する菅政権の攻撃的な姿勢はそうした流れの中にある。知識人批判が流行しだしたのは、社会の情報化の進展による。情報化とは知識化だ。仕事や消費により多くの知識が要求されるようになり、知識人ばかりでなく、知識をなりわいの対象としない一般の人びとが日常的に知的な作業をせざるを得なくなった。その結果、知識人の社会的な地位が相対的に低下し、かつてのような権威を帯びた存在ではなくなった。
30代 橋下徹は学術会議の会員任命拒否問題をめぐってこんなツイートをしていた。「日本の人文系の学者の酷さが次から次へと出てくる。こやつらは『自分は賢い!一般国民はバカ』という認識が骨の髄まで染みている。こやつらの共通点は、税金もらって自分の好きなことができる時間を与えてもらって勉強させてもらっていることについての謙虚さが微塵もないこと」
年金 言葉のセンスの悪さを除けば、かつての吉本隆明の知識人批判と重なるところがある。大学が全共闘の学生によってバリケード封鎖された半世紀前、吉本は「〈大学〉とはつまるところ、教育設備の便利さの問題と、学問や教育をやってさえいれば、いい年齢をした男たちが遊んでいられるこの現実社会の〈天国〉の問題である」とし、「現実社会のなかで、大衆がみずからの胸の中に圧殺してしまった願望が、吐息となって結晶して、この大学という名の〈天国〉を人工的につくりあげているにすぎない」と指摘した(「情況」、1969年)。
ただ、吉本は知識人を批判しても、知識そのものをあなどっていたわけではない。彼はその力も怖さも知っていた。中国の文化大革命で毛沢東に率いられた紅衛兵が知識人を痛めつけ、知そのものの圧殺にかかったとき、それを徹底的に批判したことにもそれがあらわれている。
橋下や菅義偉には、知というもの、とりわけ人文知をあなどっているふしがある。「社会に対して何の貢献をしているのかわからん仕事」という橋下のツイートからは、人文知はあまり社会の役に立たないから価値が低いというメッセージが伝わってくる。理念より実利を優先する菅は橋下以上に人文知への蔑みを抱いていると推察される。
30代 すること、したことの説明だけは尽くそうとする橋下に対して、はなから説明を拒む菅は知そのものを忌避しているように見える。
年金 知の表現は、論理であれ、物語であれ、ひとつの筋道を示すことが欠かせない。菅はそれをせず、いきなり行動に出る。学術会議会員の任命拒否はその典型だ。意表をつき、相手を圧するのはヤクザのやり口であり、知識人には効き目があると思っていたのかもしれない。
国会の質疑ではそれは通用しなかった。議論は知の作業であり、必ず筋道を示すことを要求される。それをしないことを自らの政治的な武器としてきた菅は、逆にそれに足を取られた。任命拒否の論理も物語も示すことを拒んだ結果、あと付けの説明を断片的に脈絡なく示すことしかできなかった。野党に矛盾を突かれて、しどろもどろになり、立ち往生するしかなかった。
30代 学術会議の会員任命拒否を正当化するため、政府は「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と定めた憲法15条を根拠にあげている。
年金 15条の「国民固有の権利」を実際に国民が行使するにはどうしたらいいか。国民ひとりひとりが自分のいいと思う公務員を選び、ダメと思う公務員をクビにすればいいのか。それでは、それぞれの推す人物がバラバラになり、収拾がつかなくなる。国民みんなで話し合って、だれを雇い、だれを解雇するか決めるしかない。
30代 現実には国民みんなが話し合うことなど不可能だ。
年金 選挙で国民の代表を選び、その代表者で構成する合議体で公務員の任命権者を決め、その人物に「国民固有の権利」の行使を代行させるほかない。
公務員の数は多く、行政の分野ごとに仕事も異なる。その選定も罷免も、ひとりの任命権者ではできないし、そのやり方もさまざまにならざるを得ない。「国民固有の権利」の行使の代行者は複数必要であり、行使の仕方も複数となる。
このことは「国民固有の権利」がいくつもに分割され、分割されたそれぞれは小さくなったぶんだけ制約を受けること意味する。その制約を定めたものが法であり、権利の行使の代行者、すなわち任命権者はその法に縛られる。学術会議法もそうした法のひとつであり、会員の任命権者である総理大臣はそれに拘束される。
権利の行使の代行者のひとりに過ぎない総理大臣が、その権利をそっくりそのまま我がものとして、思うままに公務員を選定、罷免をしていいわけではない。学術会議法の想定する範囲内で代行が許されるだけだ。つまり「形式的任命」(1983年の中曽根康弘の国会答弁)ができるだけだ。