がらがら橋日記 IT難民

 来年の手帳を買った。同じ物を使い続けてずいぶんになる。それまでいろんな手帳を使ってきたが、4Bの鉛筆で書くとき、いちばん書き心地がいい今の手帳に落ち着いた。カバーはレザークラフトに凝り始めた職場の同僚が習作に作ってくれたものを使っている。毎日使っているうちに手になじんで不揃いの縫い目も朴訥な味わいになってきた。

 このご時世だから、手帳の機能などデジタルでいくらでもある。たぶん、そっちの方が便利だろうと、せっせと入力してみたこともあったが、結局は手書きに戻る。

 電子書籍も同じような道筋をたどった。読むのに不都合はないし、感動や理解の深浅に紙面と画面の違いはない。置き場に困ることがない分だけ電子書籍の方がいいとまで思っていた時期もあったが、だんだんと蓋を開けるのが間遠になってきている。物としてそこにない、という不確かさが嫌なんだろうなあと思う。

 コロナが契機となって、学校現場にどんどんIT機器が入ってくるようになった。教室には電子黒板が置かれ、今年度中には子どもたち全員にタブレットが配備される。

 教職員の方から、電子黒板やタブレットがほしい、などという要望は一度たりとも聞いたことがない。それがなくても授業はいくらでもできる。授業の質と機械とは無関係である。新たに生じる負担を思えば、進んで導入したいとは思わないのが多数だろう。にもかかわらず、号令一下、莫大な予算をつぎ込んでIT機器がなだれ込んできた。教科書にはQRコードが載り、使うのがもはや前提だ。

 おもしろいことに、そうなればなったでたいていの職員は、あっと言う間に操作を覚え、さっさと使いこなすようになる。

 昨日は、タブレットの保管庫が大量に運び込まれた。大型トラックから次々降ろされる機械に、

「冷蔵庫ですか、先生。」

と子どもが聞いてきた。用途を言って、タブレットで勉強するのは楽しみかと聞くと、もちろんだ、とでも言うように元気な返事をした。

 これらの機器を置くために駆逐されていった道具や空間がどれだけあったか、それを生み出すためについたため息など、もうちょっとすればだれも忘れてしまうんだろうなあ。

 おっと、駆逐されるのは物ばかりではなかった。ぼく自身がそうじゃないか。もっとも手帳も本も黒板もデジタルがなじまない身には、これ幸い、でもあるのだけれど。