がらがら橋日記 物語
かさこじぞうみたいにある程度読み応えのある物語は、どの学年にも置かれていて、研究授業でよく取り上げられる。物語をどう教えたものか、ぼくはついにつかみ損なってしまったが、人の授業を見ていると、こうすればよかったかもなあと悔やむ一方で、いっしょに読むってやっぱり楽しいなあと思う。
三年生の国語には、『サーカスのライオン』という話が載っている。サーカスの火の輪くぐりを生業としながらも、年老いてやる気を失ったライオンが、少年と出会って再び気力を取り戻す物語。しかし、蘇った気力は少年を火事から救い出すことにすべて注ぎ、彼は命を失う。
四年生は、おそらく小学校の国語教材では支持率ナンバーワンだろう新美南吉の『ごんぎつね』。この間、中堅男性教員の授業を見た後、二人で少し話をした。
「前は、俺が最初に朗読すると、子どもたちが泣きよったんです。」
「うん。最後の場面は、読んでるこっちまで泣きそうになるもんね。」
「そうなんです。でも、今の子、泣きゃあしませんよ。」
彼の意見をそのまま肯定したものかぼくにはよくわからないが、物語の方は何十年と変わらずとも、受信機側は時代とともに変わっていって当たり前で、ゲームやアニメに常々同期している子どもたちにとって、これらの物語など古典落語や講談みたく、少々波長を合わせるのに手間取るのかもしれない。
『サーカスのライオン』にしても『ごんぎつね』にしても、ラストは主人公が死んでしまう。作者は、命を奪わなければ、物語を結ぶことができなかったのである。ごんがどんなに祈りを込めて栗や松茸を兵十に捧げたとしても、命まで捧げなければ埋め合わせることはできないし、ライオンが再び命を燃やす喜びを得るには、同時にそれを失わなければならないのだ。それが物語のお約束、物語の真実。
ちなみに六年生では、命のやりとりを回避する物語が登場する。こうなると、思想とか宗教味が加わってくるので、教員によっては、
「あれは、無理。教師を選ぶね。俺には教えられない。」
などと投げやりになる人がいる。おもしろい。
授業を見ながら、ごんを撃ち殺した兵十を非難する声や、ライオンが死ぬのに納得がいかない、という意見がまったくないことに気づいた。今の子どもたちも物語のお約束にしっかり身を委ねているようだ。