がらがら橋日記 かさこじぞう

 この時期の学校は、どこでも研究授業がさかんに行われる。研究授業というのは、教師の力量を高めるために、授業を見合って批評し合う。

「これさえなけりゃあねえ。」

 気楽な商売なんだけど、とでも言いたげにつぶやく人もある。

 このところ立て続けに、その研究授業で『かさこじぞう』を見る機会があった。題名を見ただけで、「かさこはいらんか」「じょいやさ」と音が響いてくる。貧乏くさい話、と政治向きのトンチンカンな横やりが入って一時排撃されかけたが、しぶとく教科書に載り続けて、おそらく日本中の子どもたちに読み継がれている。

 改めて読んでみて、やっぱりおもしろい話だと思ったのだが、それは一部をすっかり忘れていたからだった。正月の餅さえ用意できないじいさまは、笠を作って売ることを思いつく。結局、一つも売れず、吹雪の中に立つ六地蔵にそれをかぶせて帰る。用意した笠は五つ。足りないのは、頬被りに使っていたつぎはぎだらけの手ぬぐいさえ与えて。

 餅がないまま暮れを迎えた二人は、餅をつくまねをして過ごす。そういえばそうだった。以前読んだときはさして何も思わなかったために、こんなやりとりがあったことを忘れてしまっていたのだった。

 餅をつくまねに興じるじいさまばあさまは、いかにも楽しげである。つまり、餅がなくても二人は満ち足りているのだ。冒頭部分で貧乏が強調されているのに引きずられてしまい、二人がちっとも不幸でないことを見落としていた。笠が売れず、しかもそれを持ち帰らなかったじいさまを責めることなく、まったく機嫌の変わらないばあさまの不動心は、じいさまのそれと対をなし、ご本尊の脇侍のごとく揺るがない。

 さて、ならばなぜ地蔵様たちは、恩返しに金品をどっさり贈ったのだろうか。なくても満ち足りている者に俗世間の宝物など不要である。この道具立てを現代小説に移植したなら、トラブルに巻き込まれるか、堕落していく過程で失ったものの大きさにおののくか、二人の幸せを破壊せずにはおかないだろう。

「じいさまは、とってもやさしい人だと思いました。」

 楽しそうに発言する子どもたちを見て思った。地蔵様の贈り物は、きっと読者プレゼントなのだ。無欲でやさしい二人がいい目にあわなかったらただじゃおかないから、そんなふうに思って物語の中に入り込む子どもたちに、待ってましたのカタルシス。やっぱりこのお話、ずっと教科書に残してもらいたい。