がらがら橋日記 モネのカレンダー
壁に掛けたカレンダーも半分になった。押さえつけられたような日々は、カレンダーにもおもりが付いているかのように見えたが、いくらか慣れ親しんだ日常に戻ってみると、日の経つスピードも元通りになった。もっともここへ来て、雲行きが怪しくなってきてはいるが。
退職の年ってどんな気分なのだろうか、と一年一年近づくごとに気になっていた。それを聞くのに遠慮もなくなったころからは先輩たちに気楽に聞いていたが、誰からも特別な感慨は聞かれなかった。我が身がいよいよそうなってみると、なるほど自分の中を覗いてみてもたいしたものは転がっていない。
今年のカレンダーは、モネを飾っている。それまでずっと貰うものだったのだが、毎日目にするものだから誰かの作品をじっくり時間をかけて鑑賞するのもおもしろそうだと思い、ここ何年かは購入するようにしている。
絵画カレンダーなど山のようにありそうだが、紙質や印刷がよくて版の大きなものとなるとそれほど数はなくて、モネを選んだのは、単なる消去法の結果である。知らぬ人のない巨匠で、これまで何度も教科書や本で見、実物も美術館で見ているはずではある。でも、これが超有名な画家の手になる名画、とまずは意味づけして見ているだけで、どれほど心を向けていたかは怪しい限りだ。
モネの絵は、どれも輪郭がはっきりしない。赤や白の花をどっさりつけた植え込みの前で縫い物をしている妻を描いた一枚、代名詞のような睡蓮、映画のワンシーンみたく複数の人物が交錯する作品、どの絵も、花や葉、服、顔、手、光の中で混ざり合うように描かれている。
毎日見ているうちに、モネのものの見方とぼくのそれとは違うのだということだけはわかってきた。 くっきりと物と物とが、物と者さえも、分かれているのではなくて混ざり合ったり融け合ったり、浮かんだり消えたり。睡蓮の葉は、光でもあるし、水でもある。花にもなり魚にもなる。輪郭を描く線は、ものを結びつけているようでもあり、もともと隔てられていないところをただ通り過ぎていく時の航跡のようにも見える。モネが二百枚以上も睡蓮を描き続けたのは、いくら描いても足りない有り様をそこに見、知ったからなのだろう。
退職にあたっての感慨が一つある。どうやらものを知らなさすぎるままずっと来てしまったらしい。まあそうであるならば、これからものの見方を身につけるほかない。まずはモネに学んで。