がらがら橋日記 新卒の夏
泥水にのみ込まれた集落、山を抉って崩れた土砂に屋根だけを残している家、九州を襲った豪雨に甚大な被害が出ている。こんな光景をあとどれほど見ないといけないのだろう。見るだけでは済まないかもしれない。次は、自分が泥流の中を逃げ惑うことにならないとも限らない。
退職の今年、パンデミックに見舞われてみると、なぜか偶然とは思えず、新卒で水害に遭遇した縁ではないかという気がしてくるのだ。
昭和58年7月、島根県西部を襲った未曾有の豪雨は、死者百名を超す大惨事となった。その年ぼくは教員としてスタートを切った。1学期の終業式を終え、泊まりがけで慰労会をした帰りの車中、同乗の先輩教員と話が弾んでいたのが、途中から二人とも自然と大声になっているのに気づいた。フロントガラスをたたく雨粒の大きさと勢いが尋常でなかった。
結局雨は、その夜ずっと勢いを弱めることなく、翌日には今の球磨川流域と同じような光景を広げることになったのである。
水害の年から3年間勤務した学校は、もうずいぶん前に廃校になっている。校区の中学校に赴任した知人が、どこでどう知ったものか先日写真を送ってきてくれた。
人気のない学校は、見るからに寂しい風情だが、地域の集まりにでも使われているのか荒れている様子もなく、なぜかほっとした。玄関脇がすぐに職員室になっているのだが、目をこらすと一階と二階の境あたりに赤い線が一本張られている。水位という字が見えた。ぼくがいたころにはなかった。地域の人にとっては、大切な記憶と記録だ。水をしたたらせた雨合羽を着てせわしなく立ち回る男たち、台所用具を抱えて学校へ上がり込んで着る女たち、あの日学校がにわかに避難所となった。何も知らぬぼくは、思いつくままに要不要の判断も付かずおろおろと動く。
感謝の言葉も怒号も浴びた。情けなさに身をよじるような思いもした。社会人になって早々、牙をむく自然にねじ伏せられるなんて想像もしていなかった。
でも、あの夏がなかったら、ぼくはこんなふうに書き続けることはなかっただろう。水害のことを書いた小文に目をとめてくれた人たちがあって、声をかけられた。同人誌を始めた。その人たちと過ごすことで狷介固陋な自分をどれだけ広げられたことか。
今年、新卒で教員になった若者たちにちょっとばかり自分が重なる。思いもよらないスタートになったという点で。そして、きっと彼らも大切な対価を得るにちがいないという点で。