がらがら橋日記 バッテリー切れ

 梅雨入りが報じられた朝、その名の通り鉛色の空が広がった。やむを得ず、久しぶりに自動車で通勤することにした。ところがあれこれかまえど、ウンともスンとも言わない。バッテリーがあがってしまったようだ。仕方がないので、妻の車で行くことにしたが、これまたエンジンがかからない。
 それぞれロードサービスに連絡し、学校には遅刻の連絡をし、業者が来てくれるまでの時間コーヒーを入れてゆったりと反省に浸った。
 ここ三カ月あまり、好天が続いたこともあって、ほとんど車に乗らなかった。自転車通勤が思ったより快適であったこと、外出規制によってさらに車を使う機会が減ったことが、すっかりぼくを車から遠ざけた。妻は妻で、便利さに目覚めたと言い、どこにでも自転車で出かけるようになった。
 加えて、自転車通勤時のスピードや所要時間、消費カロリーなどのデータがたまっていくのがおもしろくもなってきた。人からすれば何の価値もないデータでしかないが、自分の体重や血圧値を知っておきたいのと同じ好奇心がつい向かってしまう。
 もう一つ。手帳のカレンダーに自転車を使った日は印をつけるようにしているのだが、これが自分にはまるでポイントカードと同じ効能を発揮するのだ。ガソリン代と二酸化炭素の排出を抑制したことに与えられるご褒美である。
 あれもこれもですっかり車を使わないことに執着してしまった結果がこれだ。
 どこかで予期していた。常日頃関心を向けられている物と、放っておかれている物と、その身にまとう空気は異なる。ただの物でしかない車であるのに、ぼくが目を向けると視線をそらすように見えるし、ため息さえ聞こえてくるような気がしていたのだ。引け目が視覚に投影しただけかもしれないが、一軒の家を見るとどことなく住む人の心が感じられるのと同じで、どんな物であってもまとう空気の質感は使い手との関係を映すような気がする。
 結局、二台ともバッテリーを交換しなければならなくなった。コツコツと節約していたつもりが、カネも資源も散財することになってしまった。心が及ぶ以上の物を持っているがためにこんなことになる。
 コーヒー片手に読んでいた『論語』の一節に目がとまった。「その老ゆるに及びてや、血気既に衰う。之れを戒むること得るに在り」(老年になると心も活動も能動的にならぬため、座して利益を得たり、貯め込みたがる、気をつけよ。)
 痛い。