ニュース日記 740 遠さと近さ

30代フリーター やあ、ジイさん。情報サイトを運営するGV(東京都港区)という会社が、新型コロナウイルスの流行で広がったリモートワーク(テレワーク)について、当事者を対象に意識調査をしたところ、通勤して働くオフィスワークにくらべて「効率的」が64.2%、「満足」が83.6%にのぼったそうだ(4月16日株式会社共同通信社)。仕事をするとき、できれば会社の建物や上司や同僚から遠ざかりたいという願望がにじみ出ていて共感する。

年金生活者 吉本隆明は1960年代のなかばごろ、人間には行動や認識の対象を次々と遠くに求めていく特性があるとして、それを「遠隔対称性」と名づけた。リモートワークの満足度が示す、職場から遠ざかりたいという願望はこの遠隔対称性のひとつと考えることができる。
 遠くに対象を求めるなら、別の会社に移るのがいちばんいいのかもしれないが、間近にいる対象を遠ざけるのもひとつの手であることをリモートワークは実証している。このやり方は、遠くにあるものがすべて対象化し尽くされた場合に残されたやり方となる。グローバル化という遠隔対称性の巨大化は、対象化できる遠隔の存在を次々と消滅させつつあり、代わりに近くのものを遠ざけるやり方に人間を導きつつあるように見える。
 博報堂生活総合研究所が小4~中2を対象に実施した調査によると、「お母さんのような人と結婚したい」男の子は1997年に41.6%だったのが、2017年には52.5%に増えている。これは遠隔対称性に反する現象に見える。けれど、母を心的に遠ざけた結果、それを遠隔の対象として求めることができるようになったと考えれば、納得が行く。
つまり母と息子の間が近くなったのではなく、逆に遠くなったために、近親結婚を想起させなくなり、母のような相手と結婚することへの抵抗感が薄らいできたと考えることができる。

30代 母と息子の間がたった20年ほどの間に遠くなるなんてことがあるのか。

年金 疎遠になったとか、仲たがいするようになったとかという意味ではない。両者の間に外の社会が持ち込まれ、そのぶん距離ができたということだ。
 専業主婦が減り、働く母親が増えた。あるいは家庭内にとどまる女性が減り、社会に出ていく女性が増えた。社会に出た女性は社会を家庭に持ち帰る。その結果、家族内に一種のよそ行きの要素が入り込む。少しかしこまった言い方をするなら、私的な関係の中に公的な関係が導き入れられる。公的な関係は私的な関係にくらべると当事者間の距離が大きい。それが母と息子の間を遠くした要因のひとつと理解することができる。
 家庭と社会、私的と公的といった言葉があいまいに感じられるなら、経済の言葉を使って、互酬制の中に市場経済が持ち込まれたという言い方をしてもいい。専業主婦の家事労働には賃金が支払われない。彼女は労働を夫に贈与し、その返礼として生活の糧を受け取る互酬制のもとにある。その主婦が家庭の外で働き始めると、夫との関係は賃労働者どうしの関係になり、市場経済の拘束を受けるようになる。それが息子との関係にも反映する。
 吉本隆明は遠隔対称性を近親相姦の禁止の一因と考えた。「お母さんのような人と結婚したい」男の子は性の対象を間近の母にではなく、遠ざかった母、遠隔化された母に求めることによってインセスト・タブーを守っているといえる。

30代 人間が近親相姦を罪と感じ、それを犯すことを恐れるのはなぜだろう。

年金 罪責感と恐怖というそのふたつの感情はインセスト・タブーの起源を考える手がかりを指し示しているように思える。
 旧約聖書に描かれたアダムとイブの楽園追放の神話では、このふたつの感情の起源が語られている。ふたりは神に食べることを禁じられた木の実を蛇にそそのかされて口にする。その結果「善悪を知る者」(創世記)、すなわち罪責感を持つ者となる。その罪を償うために、イブは子を生む苦しみを、アダムは働く苦しみを与えられ、エデンを追われる。ふたりはそのとき初めて恐怖の感情も経験したはずだ。
 この神話を人の生誕の物語として読むことができるとしたら、人間は母胎の楽園を追われてこの世界に生まれ落ちるとき、やはり罪責感と恐怖を抱くと想定することが可能になる。ただ、恐怖についてはすぐに納得できても、罪責感のほうは理解しがたい。胎児はどんな罪も犯していないはずだからだ。
 罪責感のもとは、楽園から放り出された経験そのものに求めるほかない。いきなり過酷なこの世界で生きることを強いられる理不尽さは、自分が何か罪を犯したとでも考えなければ、とても納得できるものではない。そのことが罪の意識の生まれるもとになる。
 乳児は耐えがたく寄る辺のないこの世界を逃れ、万能感と快感に浸ることのできた母胎の楽園へ帰りたいと願う。その願望は近親相姦への願望の原型を成す。だが、母胎への帰還はその代償として、罪責感と恐怖の体験の反復を強いるだろう。近親相姦に対して私たちの抱く感情の起源をそこに求めることができる。