がらがら橋日記 学校再開
学校が再開して一週間が経った。一月以上も休校が続いたことがどう影響するのかと思っていたが、さしたる混乱もなく毎日が過ぎていった。
「大変でしょう?」
毎日おびただしい電話の応対をせねばならないが、そのうちの何割かからは、こんな同情をいただく。未体験の学校生活が続く、それだけでどんなに負担なことか、と先方は思われるのだ。
「いや、そちらこそ。」
味も素っ気もない無難な返答でたいていはやり過ごすのだが、心の内では、
「それがあなた、暇で暇で…。」
と言っている。今のところは何だか不謹慎に響くようで言葉にしないだけのことだ。
片っ端から行事や会合が中止となり、出張は皆無、来客も激減、休校の遅れを取り戻すために授業は必要最小限を粛々と、あれもやめよう、これもやめよう…。
気がつくと、手持ち無沙汰な自分がいる。こんなことは初めてである。
憶測と観測によるのだが、暇になっているのはどうやら自分だけではない。担任教員は授業があるので、私の内言のようなことは間違っても言わないだろうが、それでも一人一人の顔に浮かぶ余裕はどうにも隠しようがない。だれかが軽口をたたいて響いてくる笑い声も、いつもよりにぎやかで頻度だってぐんと多くなっている。
当たり前ではある。この時期ならどの教員も授業のことを考えた上に、運動会の準備を進め、陸上大会だの、参観日だの、なんとか集会だの、研究授業だの、どこそこ学校との連携だの、いくつもいくつも同時にこなさないといけないのだ。髪振り乱すという形容が修辞と言えないほどに。
教師が落ち着いていれば、子どもだって穏やかになる。言葉を介在させなくても、相対していたらそれだけで心の波の大小は伝わっていく。
このコロナ制限下で子どもと教師が例年になくつながりを深めることができて、何だかみんな落ち着いてるよねえ、と互いに笑い合ったりできたとしたら、そして、なんだこうすりゃよかったんだ、と分かり合えて、これでいこうよこれからもなんて運びになったとしたら。
だれもできなかった大胆な教育改革だ。じわじわと仕事を増やすことを当然としている大人たちの石頭を小気味よくひっぱたいて。
暇ゆえに弄んだ妄想一つ。