ニュース日記 738 新型コロナがあらわにしたもの
30代フリーター やあ、ジイさん。新型コロナウイルスに対する各国・地域の指導者の対応をどう評価するかをそれぞれの国民・住民に尋ねた国際比較調査で日本は最下位だったと報じられている(5月8日時事ドットコムニュース)。
年金生活者 新型コロナによる人口当たりの死者数を国・地域別に見ると、日本は下位に位置している。それなのに、安倍政権への評価が低いのは、政権が得意としてきた「経済優先」と「政治主導」をコロナによって封じられているからだろう。
緊急事態宣言は「経済優先」とは正反対の政策であり、これまで底堅い内閣支持率を支えてきたアベノミクスの成果を帳消しにするほどの打撃を日本経済に与えた。その傷を手当するための国民への給付金は所得制限付きの30万円が悪評で、あわてて一律10万円に変更したものの、アベノマスク同様にいつ国民に行き渡るかわからない状態にある。
30代 やることなすこと、なんであんなに遅いんだ。
年金 わずか10万円の現金をさっさと配ることもできないのは、行政組織がそれに対応できないからだ。言い換えれば「政治主導」によって今まで動かしてきた官僚を今度ばかりは思うように動かせなくなったことを意味する。その理由をひと言でいえば、動かさなければならない相手が今までに比べて格段に多いということだ。
「官僚主導」から「政治主導」への転換は安倍政権が民主党政権から受け継いだ基本政策のひとつだ。内閣人事局を新設し、霞が関の幹部人事を官邸が一手に握る体制をつくりあげた。それが官僚による政権への過剰な忖度をはびこらせる副作用を生んだ。「政治主導」がそれだけ力を発揮したことの証左ともいえる。
だが、その力が及んでいたのは主として高級官僚、つまり人事で脅せる相手にとどまり、物事を実行できる範囲が限られていたと想像される。国民ひとりひとりへの例外的なカネやモノの配布は、官僚組織の頂点から末端まで大勢を動員して新しい体制をつくらないとできないはずだ。官邸の「政治主導」ではそれが難しいことをコロナ危機はあらわにした。
安倍晋三がコロナ対応で左派・進歩派からだけでなく、右派・保守派からも批判されているのは、「経済優先」「政治主導」というふたつの武器の使用を封じられた現在の状況を乗り超えられないでいることへの不満、いらだちからと推察される。
30代 専門家会議の「新しい生活様式」の提言には恐れ入った。
年金 正解が正解にとどまらず、信仰となり、人びとを動かす。医療崩壊をさせてはいけないという「正解」が今それに近い状態になっている。
外出や営業の自粛の要請に人びとが従うのは未知のウイルスが怖いからだ。政府はその恐怖心に助けられて強制なしに国民の行動に制限をかける。その最大のねらいは個人を助けることよりも医療システムを守ることにある。医療崩壊したら大変なことになると、新たな恐怖心を呼び起こし、自粛の徹底を迫る。
部分的な「正解」を全体的な「正解」として扱った結果であり、そうした逆立ちを具体化したのが「新しい生活様式」だ。食事のときは横並びに座り、大皿を避け、なるべくしゃべらず、食べることに集中する……。
そこには権力としての医療が政府を左右している姿がある。それは「医療崩壊」の前に「経済崩壊」を招く恐れがある。
医療崩壊を防ぐ王道は患者の受け入れを制限することではなく、受け入れる能力を高めることだ。それをサボってきたツケがいま回ってきているのだとしたら、応急処置によって受け入れ能力の拡張をはかるほかない。任務を次々こなすのに精いっぱいの医療の従事者たちにはできないことであり、政権がルールや前例を破って実行するほかない。それにもたついたことに国民の批判が集まっている。
30代 東京保険医協会の調査では、都内の診療所を受診する患者が大幅に減っていると報じられている。「外出自粛や、医療機関での感染を恐れて受診を控えたことなどが影響している」そうだ(4月24日朝日新聞デジタル)。
年金 患者が自分で受診を「不要不急」と判断したと推察され、診療所に行かなくて済んでほっとした患者だっているに違いない。
新型コロナは医療が時として国家を動かすほどの権力を持っていることを明るみに出した。「医療は、これまで誰も持ち得なかった『国民の人権さえも制限できる巨大な力』を持ってしまった」と医師自身に言わしめた(森田洋之「人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?」、4月14日南日本ヘルスリサーチラボ)。
同時に医療はその「巨大な力」を発揮したことで受診の「自粛」も広げ、医療行為のかなりの部分が「不要不急」であることもあらわにした。患者がこれまで「不要不急」の受診をしていたのは、権力としての医療がそれを「必要緊急」なものとして扱ってきたからだ。それを正当化しているのが、患者をひとりも死なせてはいけないというゼロリスク神話にほかならない。それは自然法則によって決まる人の生死をあたかも医療が決めるかのような思い込みを生み出した。