ニュース日記 737 権力としての医療

30代フリーター やあ、ジイさん。「医療は、これまで誰も持ち得なかった『国民の人権さえも制限できる巨大な力』を持ってしまった」と、森田洋之という医師が書いていた(「人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?」、4月14日南日本ヘルスリサーチラボ)。

年金生活者 新型コロナウイルスの感染防止を理由に世界中の人びとから移動の自由を奪っているのは直接には国家だが、国家にそれができるのは医療の名による正当化があるからだ。そして医療は患者をひとりも死なせてはいけないという「ゼロリスク神話」を行動原理にしておのれを正当化している。
 その結果、他のどんな人為的な力をもってしても不可能と思われる大規模な経済の停滞を現出させている。それは企業倒産の頻発、失業者の急増、それにともなう自殺者の増加といった、コロナによる死者を上回るかもしれない悲劇の可能性をはらんでいる。医療はそうした犠牲を出してでもおのれの行動原理を貫く力を持っていることがあらわになった。それに従わざるを得ない現在の国家はある面で医療という権力によって動かされていると言える。

30代 それもジイさんのよく言う国家からの権力の分散かい。

年金 国家から個人、企業、国家間システムへの権力の分散は、資本主義の高度化にともなう現在の世界史的な流れだ。消費の過剰化が個人への、産業のソフト化が企業への、資本のグローバル化が国家間システムへの権力の分散を駆動してきた。医療はソフト化された産業の一分野を形成している。
 産業のソフト化が国家から企業への権力の分散を駆動したのは、ハードな産業すなわち第2次産業なら必須とする国家によるインフラ整備をそれほど必要とせず、そのぶん国家への依存を免れているからだ。
 現在の医療を牽引しているのは製薬会社や医療設備・機器メーカーだ。それらはモノを製造する点では第2次産業だが、研究開発に莫大な投資をしている点ではれっきとした第3次産業、ソフト化された産業ということができる。研究開発を中心としたその力は世界の医療の方向、したがって国家の医療行政を左右する。

30代 それだけでは医療の力が突出しているのを説明できないだろう。

年金 医療は消費の面から見ても、国家から分散した権力を手にしているとみなすことができる。先進諸国での消費の過剰化、すなわち選択的消費が必需的消費を上回ったことにより、かつてなら王侯貴族だけが求めた「不老不死」を一般の個人が求めるようになった。それが患者をひとりも死なせてはならないという「ゼロリスク神話」を生み、医療がその鍵を握る存在として権力を持つようになった。消費の過剰化によって国家から個人への権力の分散が進み、個人が手にした権力の一部が医療に集中した過程をそこに見ることができる。

30代 緊急事態宣言の1カ月の延長で個人消費の冷え込みによる新たな失業者は77万にのぼるという民間エコノミストの予測が報じられていた(5月2日時事ドットコムニュース)。

年金 「不要不急」の消費の抑制が、大勢の「必要緊急」な糧道を断ってしまう事態が進行しつつある。
 政府が国民に要請している不要不急の外出の自粛は、言葉をかえて言えば選択的消費の抑制を意味する。前世紀の末、吉本隆明は国民が一斉に選択的消費を抑えれば、自らの生活水準を落とすことなく、時の政権を倒すことができると語った。いま現実に起きているのは多くの国民の生活水準が低下の危機に直面する一方で、政権は続いているという正反対に近い事態だ。
 どちらにせよ言えることは、現在の先進国や新興国の経済がいかに「不要不急」の消費に、言い換えれば選択的消費の支えられているかを新型コロナがあぶり出したということだ。

30代 「医療崩壊」を防ぐことが至上命令のように語られている。

年金 スローガン風に言えば「医療を守れ」となる。危機に際して叫ばれる「国家を守れ」という号令が国民よりも国家を優先したように、「医療を守れ」のかけ声は人間よりも医療のシステムを優先することにつながる可能性をはらんでいる。
 医療現場で踏ん張っている医師や看護師を前線の兵士にたとえ、その足を引っ張るようなことを言うな、といった主旨の発言がネット上を行き交い、医療を批判するのは許されないことのような空気をつくり出す。
 医療が崩壊したらたくさんの人が死ぬ。医療が発するこのメッセージに人びとは脅える。その前提にあるのは、医療は人を死なせないという信仰だ。
 現実はそうではない。病院は人の死が日常化した場所だ。そこで救われたと思われている命の中には死を先延ばしにされている命も少なくないはずだ。人間の死亡率は100%という動かせない数字は病院でこそリアリティーを帯びて迫ってくる。
医療崩壊はしないほうがいい。だが、崩壊を恐れるあまり、個人の生活様式の変更まで迫って自粛を求め続けるのは、人権を侵害する恐れがあるだけなく、「経済崩壊」を引き起こし、助かる命も助からない事態を招く危険があることは知っておかなければならない。