がらがら橋日記 連休と読書

 読書好きの職員から声をかけられた。
「この連休、さあ読むぞと思っていたのに読めないんです。」
 ぼくは借りる派だが、彼女は買う派で、話題の新刊本を購入しては、読後の感想とともに回してくれる。大変ありがたい存在である。
 外出を制限された連休など前代未聞で、本好きには願ってもない環境になったわけだが、ここまで贅沢な希望が叶ってしまうと芥川龍之介『芋粥』五位の某のごとく読書欲も減却してしまうものらしい。
「いやあ、ぼくも同じ。いつもの休みだったら読むんだろうけど、すっかりリズムが狂ってしまって。」
 図書館から借りてきた本も、結局最初の数ページを読んだくらいで放ってしまっている。返すつもりが休館になってしまい、いつ再開されるかも分からない。貸出期間の大幅延長が災いして、きっとおもしろい小説だろうとは思うものの、ちっとも読む気が湧いてこない。
 ただ、忙しいいつもの日々ならば、どうしても読みやすい向こうから引っ張り込んでくれるような小説に手が伸びがちなのだが、この状況下でしか読まないだろうという本もあるような気がした。長編故に断念した必読古典とか歯が立ちそうもない難解な書とか。
 そんなことをつらつら考えていると楽しくなってきて、近所の書店に自転車を向けた。二メートルおきの停止線を順に進み、ビニールシートの先のレジに久しぶりに手にした岩波文庫を差し出す。おう、けっこうわくわくしてくるじゃないか。
 決して読みやすい本ではなかったけれど、背伸びして読んでいた若い頃の感覚もちょっぴりよみがえってくるような気もして、程なく読了した。スンニ派とシーア派がどう違うのか初めて知った。歩み寄るなんて不可能にしか思えない二つの違い、右翼と左翼、保守と革新、自粛警察とパチンカー、筆者の示すイスラームの諸相が今と無縁だとは思えず、とてもおもしろかった。
 翌日、再び自転車で書店に向かった。やはり停止線に並んで、ビニールシートごしにアルバイト店員に同じ筆者の岩波文庫を渡す。コロナ騒動がなければ、読むことはなかっただろうとしか思えない重厚な一冊。
 家に戻ってページをめくる。おお、なんと難解な。途中何度かただ字を目で追ってるだけでちっとも内容が入ってこないことに気づいたが、行きつ戻りつしながらちょっぴり分かってきたり、やっぱり分からなかったりを繰り返して読了する。 コロナ禍に思想の棚へ導かれ     おそまつ