ニュース日記 730 高慢と権力

30代フリーター やあ、ジイさん。麻生太郎はなんでいつもあんなに横柄なんだ。

年金生活者 人が高慢さを手離せないのは、それが身を守る手段のひとつになっているからだ。高慢であることは、無力な自分、傷を負った自分、苦痛を感じている自分を、あたかもそうでないかのようにみなすことだ。
 無力、負傷、苦痛、これらは母胎の楽園を追われて過酷なこの世界に生まれ落ちた経験を原型としている。その経験の反復と言ってもいい。それを消去あるいは緩和するには楽園に帰るのがいちばんいい。けれど、それはかなわないことなので、代わりを求める。
 言葉には現実を代替する機能がある。代替は代替されるものを否定することでもある。言葉は現実を否定することによって、現実を見下ろす位置に人間を置く。それは地上を離れ、楽園に帰る代わりとなり得る。その際の「上から目線」が高慢の起源となる。

30代 どうしたら麻生の高慢の鼻をへし折れるか聞きたいよ。

年金 高慢であることは、この世界で生きていてかまわないという許可証を自分自身に与える方法のひとつだ。
 生誕とともに寄る辺のない地上に放り出され、無力を思い知らされた人間は、母の全面的な庇護を受けて生き延びる。庇護自体が生きる許可証と言っていい。
 成長とともにその庇護が縮小するにつれ、言葉が許可証の性格を帯びるようになる。母をはじめとした大人の言葉、それをまねて覚えた自分の言葉が、現実の自分ではない第2の自分を存在させる。現実の自分は無力なのに、第2の自分は力のある存在と感じられる。さっき言ったように、言葉は現実を代替することによって現実を否定するからだ。
 人間はそうした言葉の否定機能を使って、現実の外に自由の領域を切り開いてきた。人間が自由を求めるのをやめられないのは、おのれを縛り、無力にする現実から解放されたいと願うからだ。その解放は生きる許可証を手にすることでもある。
 高慢はそこに忍び込む。人間がその許可証にひそかに期待しているのは、胎児の時代の万能感の復活だからだ。母胎の宇宙と一体の胎児は自らが宇宙的な存在、ユニバーサル=普遍的な存在でもある。そのことが万能感を生む。万能感の喪失を生きる許可証の喪失とみなす人間は、ただ生きることを許されるだけでは満足できず、万能の存在として認められることを願う。
 だから、人間は高慢になることを避けられない。それは大けが、大やけどのリスクを抱えて生きることを意味する。その発現を最小限にするには、高慢を制御する必要がある。

30代 それでどうしろというんだ。

年金 傷つくことを恐れ過ぎないことはその方法のひとつだ。傷つくのを恐れるのは、痛いのが嫌だからというだけではない。自分は傷ついてはいけない存在、不可侵の存在だという意識が恐れを生む。その高慢さを砕くのが、負傷を恐れ過ぎない心の構え方にほかならない。

30代 麻生は怖いものなしに見えるぞ。

年金 富者が貧者をさげすむように、知識をため込んだ者が知識の乏しい者を見下すのはありふれた光景だ。知識というものの普遍性がそうさせる。
 人間が膨大な知識を蓄積できるのは、言葉を使うからだ。言葉は現実の個別性を否定することによって、知識という普遍性を成り立たせる。その普遍性はそれ以上のものがないほど高度な普遍性であり、それを手にした者は万能感に包まれるような状態に近づいていく。言い換えれば胎児の状態に近づく。
知識の蓄積による普遍性の獲得は胎児の普遍性の反復にほかならない。そのとき生まれる万能感という名の力の意識は、知識の乏しい者を力の弱い者とみなして見下す。

30代 麻生の暴言、失言も彼の万能感のなせるわざか。

年金 知識によって万能感に包まれた状態に近づいた者はおのれを力ある者と自認し、知識の乏しいままの者はおのれの力の弱さを認める。そのとき両者の間に権力関係が生まれる。フーコーが知を権力と不可分のものととらえた根拠がそこにある。
 国家の主要な機能のひとつは富の再分配だ。この場合の富は実質的には貨幣を指す。MMT(現代貨幣理論)の主張によれば、貨幣は国家が発行を独占するので、原理上は再分配の必要はない。つまり国民や企業から集める必要はなく、ただ分配すればよい。それでも租税を徴収するのは貨幣を流通させるためだとMMTは言う。現在の日本が膨大な財政赤字を抱えていても破綻しないわけがそうやって説明される。
 国家の再分配機能は知にもおよぶ。貨幣の場合と同じように、国家が対象とする知、すなわち法やその執行、判決などの形をとった知はその発信を国家が独占している。国家の外から集めてくる必要はない。
 富も知も権力を帯びる。国家はそれらをコントロールすることによって社会を支配する。なぜ国家にそんなことができるのか。そのわけは富からも知からも説明できない。国民が国家を信用してそれを委ねているからというほかない。
 国民は担保を取っているわけではない。信用の根拠を探すと信仰に行き着く。国家を国家たらしめているのは宗教にほかならない。