ニュース日記 726 「大衆の原像」は何を考えるか

30代フリーター やあ、ジイさん。安倍晋三が衆院予算委員会で桜を見る会の参加者を安倍事務所が募っていたことについて「私は、幅広く募っているという認識だった。募集しているという認識ではなかった」と答弁したことに、ネット上で非難や揶揄が浴びせられた。「とうとう日本語も分からなくなったか?」「これが日本の総理か」といったぐあいだ。

年金生活者 彼のそういう「無知」「無教養」な一面が底堅い内閣支持率を維持する要因のひとつになっていることを見落としてはならない。
 世論調査結果にはあらわれない国民の多くの本音を推測すれば、安倍晋三の言葉遣いのおかしさはご愛嬌程度のものと推察される。それにくらべれば「知識」や「教養」をむき出しにする政治家のほうがよほど国民の反感を買う。ある程度の「無知」や「無教養」は国民に親近感を覚えさせる。
 これは国民が愚かだとか知恵がないという意味ではない。知識人が持つような「知識」や「教養」は持ち合わせていなくても、自らの生活や仕事にかけては知識人をしのぐ賢さと知恵を備えている。それが吉本隆明のいう「原像としての大衆」にほかならない。その「原像」の部分が安倍晋三の「無知」「無教養」と共振し、政権への安心感を形成していると考えることができる。

30代 麻生太郎も首相時代に「踏襲」を「ふしゅう」と読むなどして「無知」「無教養」をさらけ出した。

年金 彼には知識や教養を小馬鹿にしたところがあり、それがマスメディアの記者たちを見下す言動となってあらわれる。記者は知識人に分類される。日ごろ政治家を批判している彼らが逆に批判される姿に留飲を下げている国民も少なくないはずだ。
 吉本隆明は思想の課題を知識をため込むことにではなく、「大衆の原像」を自らの思考に繰り込むことに置いた。それは「無知」「無教養」を思考の対象にすることを意味する。それが政治の課題でもあることを今世紀に入ってからの日本の政治過程は示した。麻生や安倍はそれと知らずにその課題にこたえようとしたように見える。

30代 知識や教養は多いに越したことはないだろう。

年金 「大衆の原像」は吉本のすべての考えの土台となっているのに、飲み込むのが最も難しい言葉だ。天下国家のこと、形而上のことは考えず、自分および近しい人たちの生活のことを考えながら生きる。吉本はそれをいちばん価値ある生き方と考え、それを「大衆の原像」と呼んだ。単に「大衆」ではなく「原像」という言葉を加えたのは、どんな人間もそうした生き方から大なり小なり逸脱せざるを得ないからだ。

30代 そんな生き方はものを考えず生きることじゃないか。

年金 「原像としての大衆」はものを考えていないのではない。自らや近しい人たちの生活のことに関しては、それこそ自分たちの生存かけて考えている。天下国家のことや形而上のことを考えることだけがものを考えることだと思っている知識人にはそれが見えない。
 たとえ話をするなら、ゴミの山を前にしたとき、それを片づける手立てを考えるのが「原像としての大衆」だとしたら、片づけずに済ます理屈を考えるのが知識人といっていいかもしれない。理屈を考えることは物事を抽象化すること、行動を留保することにほかならない。
 「原像としての大衆」が天下国家のことや形而上のことを考えないのは、その力がないからではなく、考える余裕がないほど真剣に生活のことを考えているからだ。天下国家のことや形而上のことを考えている知識人はそのぶん生活のことを考えるのがおろそかになっている。

30代 吉本のようなことを言うやつは、きっと爺さんみたいない吉本信者だけだろう。

年金 知を権力と結びつけたフーコー、性と結びつけたラカンは吉本と重なるところがある。
 「ひとつの知の樹立とは、その行使の享楽がその獲得のそれと同じものであるということだ」(ジャック・ラカン『アンコール』藤田博史、片山文保訳)。知ることも、知ることを通して何か考えることも、性的な快楽をともなうことであり、それが知が成り立つということだ。ラカンはそう言っているように受け取れる。
思春期に近い子供にとって、性は行為の対象である以前に、知りたくてしかたがない対象だ。親の目を盗んで性の世界を探索し始める。その断片を知るたびに興奮を覚える。知を興奮とはほど遠い冷静な理性の働きと考える常識をその経験は否定する。
 性の欲動のおおもとに、母胎の楽園に帰りたいという願望があるとすれば、知ることは、かなえられない願望の充足の代替とみなすことができる。性交は相手を知るための身体的、心的な動作で満ちている。相手はどうすれば喜ぶだろうか、いま満足しているだろうか、といったことを切実に知りたがる。
 性交の代替である恋愛でも、相手を知りたいという願望が募る。「あなたのことをもっと知りたい」が口説き文句にもなる。
 ラカンは知を知識人の独占物であるかのようにみなす通念を打ち砕いた。フーコーは知を権力に左右されないニュートラルなものと考える錯覚を打ち砕いた。