がらがら橋日記 聞かざる

 職場の忘年会で乾杯のご発声をと促されて、マイクの前に立った。あいさつなどしなくてすむならそれに越したことはないが、この年になると避けては通れない。
 若い頃は、何のためにあいさつなどするのだろう、とはなから聞く気もなく、終わるまであれこれ別のことを考えるのが常だった。
 聞かないことに関しては、キャリアが長い。そもそも校長先生の話をただ耐える小学生、というより耐えないですむ方法を模索する小学生だった。
 中学生になると、わずかに聞きながら意識を別に飛ばすことに習熟した。窓の外の雲の流れだの、遠くの山並みを越えていく鳥の群れなどを眺めて空想にふける。
「はい、次は宮森君。」
 教科書をさっぱり見ていないことに気づいた先生が突如指名する。先生が期待していたような間を一切空けずに音読する。意識のうちのわずかではあっても聞いてはいるのだ。どこを読めばいいかは、教科書に視線を戻した瞬間に分かる。
「君、聞いてなくてよく分かるね。」
 先生は、教科書から目を離すことなく淡々とつぶやいて、次を指名する。授業後級友がからかう。
「また、言われちょったな。」
 いつの頃からか、徐々にどんな話にも耳を傾けるようになっていったのだが、それなりに様々な立場を経験して、話す側の思いをいくらかは理解したということだろうか。聞くことに関しては、ぼくの成長は極めて遅かった。
「さて、今年もいろんなことがありました。楽しかったことも、しんどかったことも。」
 中には、必ずぼくと同種の人間がいるに違いないが、みんな黙って聞いているように見える。笑ってほしいところは、笑ってくれる。
「でも、時が過ぎればたいていは笑い話です。」
 私が言外に何の具体を含ませているか、職員には分かっているはずだ。
 乾杯を終えて、席に戻る。若い職員たちが声をかけに来る。教頭先生の話はどうのこうの。へえ聞いてたのか。話しかけられながらふと考える。ほんとうか?時が過ぎれば苦しかったことは笑い話になるか?そんなものは、その程度のしんどさでしかなかったのでは?職員の話は続いている。そしてぼくはまた、聞いていない。