ニュース日記 723  究極の公私混同

30代フリーター やあ、ジイさん。去年の暮れに朝日新聞が「首相動静」欄をもとに第2次安倍政権の7年間を総括していた(12月27日朝刊)。外交・安保にかかわる人物との面会の回数が目立って多いと報じている。

年金生活者 分散した国家の権力の回収を使命とするこの政権の特質があらわれている。
 資本主義の高度化は国家から個人、企業、そして国家間システムへの権力の分散を促した。消費の過剰化が個人への、産業のソフト化が企業への、資本のグローバル化が国連など国家間システムへの権力の分散を駆動した。
 国家にとって権力の分散は自らを危うくする事態であり、分散した権力の回収にどの国家も躍起になっている。その実行部隊の役割を担わされた安倍政権は回収作業の一環として、これまで安保法制や特定秘密保護法の制定などを強行し、憲法改正を目指してきた。外交・安保に力を入れるのもそうした作業の一環にほかならない。

30代 外交・安保がなぜ権力の回収に効果があるんだ。

年金 柄谷行人は、国家が「他の国家に対して存在する」ことを強調する(『世界共和国へ』)。国家は他の国家があってこそ国家たり得る。諸国家と対立したり、妥協したりすることを通しておのれの存在を示す。他の国家に対して国民を代表することができるのは国家だけだ。
 安倍晋三が「外交の安倍」と呼ばれるほど外交・安保に熱心になのは、そのこと自体が国家の存在理由を示すことになるからだ。それを国民が認めれば、分散した権力の回収が期待できる。

30代 彼は国内にいるときより国外に出たときのほうが機嫌がいいといわれるほど外遊に熱心だ。

年金 日本を出ると「朕は国家なり」を味わえるからだろう。究極の公私混同といえるこの言葉は17世紀フランスの絶対君主ルイ14世の言葉と伝えられている。安倍晋三は絶対君主こそ自分のあるべき姿と思っているのではないか。森友・加計学園問題や桜を見る会での公私混同や、官僚に忖度を強いる独裁的な振る舞いはそれに起因していると考えればある程度納得がいく。
 現実には絶対君主になるのは不可能なことだ。内閣支持率は底堅いとはいえ、不支持は常に相当数あり、ときには支持を上回る。それが気になる彼は自分への批判に過敏になり、批判する相手に攻撃的になる。国会での野党へのヤジは常態化している。
 国外に出れば、そうした国内での葛藤は棚上げされる。首相・安倍晋三は日本国の代表者として扱われ、彼を支持する国民も、支持しない国民も、そしていつも彼を批判している野党も、みな彼ひとりに代表される存在となる。彼は日本国のすべてを代表しているかのような存在と化す。それが気分を「朕は国家なり」に近づける。

30代 そんな首相が選挙に連勝してきた。

年金 公私混同や独裁的な振る舞いがあまりにもあっけらかんとしているのも一因だろう。画策した振る舞い方ではなく、身内や親しい人に親切にしてどこが悪いの? 総理なんだから忖度されて当たり前でしょ?といった、育ちのよさを感じさせる天然な一面が嫌味な臭いを消し、国民の反発を抑える役割を果たしている。
 彼のこうしたキャラクターは、エリート政治家の家に生まれ、公私の区別のつきにくい環境で育ち、手をのばせばすぐ届くところに権力がある生活を送ってきたことによって形成されたと考えることができる。だから、彼自身の責任とばかりは言えない。だが、その結果として生じる政治責任は問われなければならない。

30代 首相は昨年の臨時国会閉幕後の記者会見で「憲法改正は必ずや私の手で成し遂げていきたい」と語り、今年の年頭の会見でも「私自身の手で成し遂げるという考えに全く揺らぎはない」と述べて「私の手で」を強調した。

年金 公私混同が憲法にまで及んでいるということだ。国民投票という「公」の手続きによってしか変えられない憲法を、その権限を持たない「私」の手によって変えると言う。日本国を非武装を理想とする国家から武装する国家に変えたいと望む安倍晋三の「悲願」は彼の「私」的なイデオロギーだ。森友・加計学園問題や桜を見る会をめぐってあらわになった行政の私物化では飽き足らず、憲法の私物化にまで突き進もうとしている。
 年始のテレビの情報番組(「ひるおび」)で、ふたりの政治ジャーナリストが、首相は自民党総裁任期が切れる前に退陣するのではないかという予想を立てていた。そのうちのひとりは、改憲発議のめどがついた段階で、自分が総理だと反発が大きいからと辞任し、それと引き換えに国民投票で賛成を得ようという意図があるのではないかと推測していた。
 もし本人がそう考えているとしたら、「私の手で」と見えを切ったのは退陣カードを切ることを指していたのかもしれない。それは政治生命を賭けた潔い振る舞いとして国民の目に映り、改憲に有利に働くだろう。それでも、国民投票になったら否決される可能性のほうが高い。退陣で公私混同が消えるわけではないし、なによりも憲法9条は戦後の日本国民のアイデンティティーを支えているからだ。