ニュース日記 722 ゴーンとソレイマニ

30代フリーター やあ、ジイさん。カルロス・ゴーンの日本脱出劇はめずらしく痛快なニュースだった。これが現実ではなく、映画かドラマだったら、見る者全員がゴーンの応援団になったに違いない。『大脱走』『逃亡者』『ショーシャンクの空に』……逃げるヒーローは枚挙にいとまがない。

年金生活者 レバノンに逃れたゴーンは声明で、自らを拘束、訴追した日本の司法制度を「有罪が前提とされ、差別がまん延し、基本的な人権が無視されている」と批判し、「(私は)不公正と政治的迫害から逃れた」と主張した。
 被疑者の取り調べに弁護士が同席できない、容疑を否認し続けると保釈されないといった、他の先進国では見られないようなわが国の司法のあり方が、ゴーンの目にはあからさまな人権無視と映っていたに違いない。
 今回の彼の意表を突く行動は、幕末の黒船のように、日本の司法制度、その運用の仕方の見直しにつながる可能性がある。すでに東京地裁はゴーンの身柄をめぐって見直しを先取りする行動に出ている。公判前整理手続きの始まる前に保釈を認めるという異例の決定がそれだ。

30代 きっかけは「人質司法」と呼ばれる長期拘留への海外からの批判だったといわれている。

年金 かつてならそんな批判を無視したと思われる裁判所が異例の妥協をしたのは、背景に国家から個人および国家間システムへの権力の分散という世界史的な流れがあるためと見ることができる。
 個人への権力の分散は、現在の司法が個人の権利を制約しすぎているという漠然とした不満を国民の中に醸成した。去年10月から11月にかけて大阪府内で護送中の被告人が逃走する事件が2件相次いだのは、それがあらわになった事例と見ることができる。
 国家間システムへの分散は、ゴーンの長期拘留に対する海外からの批判が日本の裁判所を動かすほどの力を持ったことにあらわれている。東京地裁がゴーンに対する異例の保釈決定をしたのは、世界で最大の国家間システムである国連が日本の司法について繰り返し求めている改善をごく部分的にせよ裁判所が受け入れたことを意味する。分散した権力を手にした国連がそれだけ日本国家に対する優位性を増したことを示している。

30代 ところで、ゴーンの逃亡先となった中東では、もっと大変な出来事に人びとの関心が集まっている。米軍によるイラン革命防衛隊の司令官ガーセム・ソレイマニの殺害だ。

年金 中田考というイスラム法学者はこの事件を「テロ」と断じ、「アメリカは世界最大のテロ国家」と指摘している。9・11を境にエスカレートしてきた「戦争のテロ化」が彼の見方にリアリティーを与えている。
 国家どうしの戦争はアメリカとイラクの戦争を最後にほぼ不可能になった。世界最大の軍事力を持つアメリカがイラクの泥沼化によって戦争遂行能力を著しく低下させたからだ。国家間では核戦争ばかりでなく通常兵器による戦争もほぼ不可能になったといっていい。このことは国家間の戦争の本流が、破壊と流血をともなう熱い戦争、リアルな戦争から、抑止力を競い合う冷たい戦争、バーチャルな戦争に移ったことを意味する。代わりに熱くリアルな部分はテロが担うようになった。
 9・11テロが起きたとき当時の米大統領ブッシュは「これは戦争だ」と宣言し、「テロとの戦い」を伝統的な国家間の戦争として開始した。それがアフガニスタン、イラクへの侵攻だった。待っていたのはイスラム武装勢力によるテロだった。
 正規軍のように公然と活動することのないテロを退治するには通常の戦争では難しい。国外で大規模に活動するテロリストを追跡するのは警察の手に余る。テロにはテロで対抗するほかないと考えるようになったアメリカはやがて「世界最大のテロ国家」となり、ソレイマニ殺害でその力を見せつけた。

30代 アメリカとイランの対立が全面戦争にエスカレートすることはないのか。

年金 国家間の熱くリアルな戦争が世界の戦争の本流だった時代なら、全面戦争になっただろう。オーストリア皇太子夫妻が暗殺されたサラエボ事件が第1次世界大戦の引き金を引いたように。
 だが、現在のテロは、国家間の熱い戦争、リアルな戦争が封じられた結果、採用されるようになった武力行使の形態であり、前世紀のテロとはその点が違う。

30代 だからといって、両国の対立が解けるわけでもないだろう。

年金 イランは司令官を殺害された報復としてイラクに駐留する米軍の基地2か所に弾道ミサイルを撃ち込んだ。最高指導者ハメネイが「平手打ちを食らわせた」と言っているように、人を殺傷するのを避けたことがうかがえる。トランプは対抗措置としてイランに追加の経済制裁を科すと表明する一方で、「米国人の死傷者はいなかった」「軍を使いたくない」と述べ、軍事衝突の拡大を避ける意向を示した。
 今後も両国の間で想定されるのは最悪でもテロかそれを大規模にした限定的な攻撃の応酬にとどまるだろう。封印された国家間の熱い戦争、リアルな戦争の代替となった現在のテロがその封印を解くことはあり得ない。