がらがら橋日記 自転車通勤
この秋から自転車通勤を始めた。
いつもより十分早く家を出る。これまで二年半、自転車で職場に行ったことなどないので、出くわした職員は一様に驚く。
「えっ、いつから?いったい何分かかるんですか?」
「家から五キロちょっとだから。ちょうどいいんだよね。そんなに車と変わらないし。電動自転車のおかげだよ。」
「でも、なんで?」
こんな流れになることが多いから、ここから先は、相手に合わせて変える。どれも嘘ではない。
若い職員に問われる。
「まあ、体力づくりってとこかな。」
同世代、退職がチラつく職員。
「退職したらなるべく自動車に乗らない生活しようと思ってね。」
これで終わらない。あれこれ聞いてくる。
「歩くのと自転車でどれだけの範囲を移動できるか実験してる。」
「ほう。えらいなあ。着々と準備してるんだねえ。」
「判断力鈍ってるんじゃないかって気になることあるんだよ、たまに。」
「ああ、ぼくもだよ。」
まだ誰にも言っていない理由。ぼくは、いつかこれを誰かに語るのだろうか。
「テレビで見ちゃったんだよ。」
「何を?」
「保育園のお散歩に車が突っ込んだ事件あったでしょ。」
「ああ、確か園児が何人か亡くなったよね。ひどい事故だった。」
「あの時、大怪我した子の今の様子が映像で流れたんだ。足引きずって体を大きく揺すりながら家の廊下を壁伝いに歩いていた。おしゃべりしながらね。お母さんに楽しそうに話しかけてた。」
映像と共に流れる母親の声。痛みに耐えかねて抱っこを求めるのに、抱いてやれなかったこと。一生障害が残ること。抑えた声にこもる怒り、嘆き、悲しみ。
「胸が潰れたんだ、それ見たら。」
同じような事故を起こさない保証なんてどこにもない。せめて車に乗る機会を減らすこと、ぼくにできる選択の一つ。
自転車通勤は概ね順調で、毎日片道五キロ高低差三十メートルの通勤路を電動アシスト自転車で快適に走っている。
何によらず、スタイルを変えてみると、意識に上っていなかったことが目に止まり、見れども見えずだったそれまでに驚くのだが、朝夕にすれ違う自転車通勤諸氏のそれぞれを観察するのも面白い。
ちょうどルートの中程に、交差点と併走させた地下道がある。駅近くの主要幹線道路なので利用者も多い。入り口には、ジグザグにステンレスの円形ブロックが埋め込まれていて、自転車は降りて通行するように書かれている。今は街路樹も箒になったので、吹き込む風に押されて落ち葉が右左に流れてブロックの向こうへと舞い降りていくのを毎日目にする。
自転車を降りなくても、そのまま下っていくスペースは十分ある。いちいちブレーキを加減しながら自転車を引くのが面倒臭い向きは、どれほど従うだろうかと疑ってかかっていた。自転車通学の中学生なら学校からやかましく言われてもいるだろうから大半は守るとしても、高校生なんぞそのまま駆け下りたかろうと思うのである。
ところが、意外なことにそのまま下るような者はほとんどいない。風体から判断して、降りる降りないの当たりをつけるのだが、ほとんど外れるのである。歩道を三列に広がって喋ると笑うを猛スピードで繰り返す高校生たち。シャツはズボンから出ているし、周囲に気を配っているようには全く見えない。こいつらは降りるまいて、そう思って見ていると、入り口できちんと降りるのである。三列は崩さないので、ブロックを枯れ葉同様にジグザグに歩いている。窮屈とも思わないらしい。
そうかと思うとスーツで身を固めた若い女性が降りずに下ってきたりする。安全上も降りるのを勧めたいような年配の女性もふらつき加減でそのまま乗っている。さすがに気が咎めるのか、降りない面々は、押して歩いているぼくと目を合わそうとはしない。心のうちでつぶやく。
「いや、そんな大したことと思っていませんから。」
地下道の中央、最も低いところには、落ち葉が溜まって絨毯を敷いたようになっている。それぞれの風に乗って辿り着いたものたち。いずれ、またそれぞれの風に送り出されていくのだろう。