ニュース日記 712 表現の不自由を強いるもの
30代フリーター やあ、ジイさん。「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」の再会を報じた朝日新聞に、愛知県知事の大村秀章がテレビ番組で語った言葉が紹介されていた(10月8日朝刊)。「公的な場面こそ表現の自由は保障されなければならない」
年金生活者 近代国家の本質的な一面を言い当てた言葉で、大村の見識を感じる。
マルクスは近代国家の完成を人間の政治的解放と考えた。政治的解放を保障するのは民主制であり、それは国民が自らの代表を自由に選ぶ権利を平等に有する仕組みを指す。ただし、その自由と平等は政治的国家という「公的な場面」においてのみ保障される。「私的な場面」である市民社会では経済的な不自由と不平等が支配し、それが表現の自由をはじめとした諸々の自由を制約している。マルクスはそうした市民社会のくびきからの解放こそ近代社会の課題と考え、それを人間的解放と呼んで、政治的解放と区別した。
「公的な場面こそ」という大村の言い方は、いまだ人間的解放が成らない近代社会の限界を踏まえたものとなっている。「私的な場面」では自由と平等が保障されない。だからこそ「公的な場面」でそれを保障しなければならない。彼の発言はそう読むことができる。
30代 「表現の不自由展・その後」の再開に抗議して県の施設である会場前で座り込みをした名古屋市長の河村たかしに対し、大村が「県条例に違反している」と抗議のツイートをしていた。
年金 それには違和感を覚える。座り込みも「表現の自由」の行使であり、「公的な場面こそ表現の自由は保障されなければならない」とした彼の見識に反しているからだ。
河村の行動は法的には問題があるかもしれない。彼が「日本人の心を踏みにじる」などとして「不自由展」の開催、再開に反対したことにも私は同意しない。しかし、座り込みそのものは擁護しないわけにはいかない。まして県の施設という「公的な場面」での行動なら、なおさらその「自由は保障されなければならない」。
60年安保闘争で学生たちが国会構内に入って抗議の集会をしたのも、60年代末に私自身も含めて学生らが大学にバリケードを築いたのも、「公的な場面」での「表現の自由」の行使と考える私は、河村の主張には反対でも、その主張を表現する座り込みを非難することはできない。
30代 大村の見識への評価は撤回か。
年金 評価は変わらない。ただ、「不自由展」の再開に向けて「攻め」を続けてきた彼は、それを達成して「守り」に転じたのではないか。「不自由展」を守るためには他の自由を抑圧しても正当化される、と知らず知らずのうちに考え始めたのではないか。河村を「条例違反」を盾に批判する官僚臭のする姿勢はそれを感じさせる。だとしたら、達成した革命を守るためなら自由を抑圧してもかまわないとスターリンや毛沢東が考えたのとそれは相似形を成すことになる。
30代 AV監督の村西とおるが「表現の不自由展」を批判して次のようにツイートをしている。「日本において『表現の不自由』など、どこにもない。あるのはただひとつ、AVのモザイク修正の彼方だけ。ありもしない『表現の不自由』を騙り公金を貪ろうとする不逞の輩ども、恥知らずにも程がある。表現の不自由とは、表現することで権力によって規制を受け、罪を喰らう事態に陥ることを指すのだ」
年金 村西は自らが体を張って戦ってきた「表現の不自由」を語っている。それは権力がじかに強いる「表現の不自由」という意味で中国や北朝鮮の「表現の不自由」と本質を同じくする。
それを強いる権力はフーコーのいう近代以前の権力、従わない者には死を与える権力だ。現在の日本国家はそれとは逆に国民を生かす権力、フーコーが生権力と名づけた権力によって運営されている。いまだ残存する死刑制度や、村西のいう「AVのモザイク修正の彼方」を規制する刑法の条項などがその例外としてあるだけだ。
「不自由展」の主催者や出品者らが問題にしている「表現の不自由」は近代以前の権力が強いるそれではなく、生権力のもとでも強いられる「表現の不自由」にほかならない。大村のいう「公的な場面」を用意し、そのための費用も支出して表現の自由を保障するのが生権力だ。「不自由展」はその生権力から排除された作品を集めて開かれた。愛知県という別の生権力によって。
それが脅迫を受けて中止され、文化庁が補助金の交付を取りやめた。生権力が保障するはずの「表現の自由」はふたたび損なわれた。
30代 それに対する抗議を村西は「恥知らずにも程がある」と批判している。
年金 人間が追い求める「表現の自由」は、権力による抑圧からの解放にとどまらない。経済的なくびきをはじめとしたさまざまな制約からの解放を人間は求め続ける。この自由へのあくなき希求こそが、村西のいう「罪を喰らう事態」としての「表現の不自由」をこれまで打ち破ってきたと考えるなら、「恥知らず」をやめることは、中国や北朝鮮の「表現の不自由」からの解放を遅らせることになる。